ROKUZAEMONの諸行無常

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明智神社に行ってきたー越前滞在時代の光秀の謎に迫るー

来年(2020)の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公は明智光秀だが、その明智光秀が、織田信長に仕える前に約10年間越前福井に滞在していたというのはあまり知られていないようだ。

自分自身も小さいときは全く知らなかったのだが、以前より歴史小説などにはそのようなくだりが記されたものもあり、自分が初めて明智光秀と福井の関わりについて目を通したのは隆慶一郎氏の某小説だったように記憶している(小説が残っていないので題名は忘れた)。学生時代に読んだので、20数年前かなあー。戦国大名の朝倉家家臣として3年間仕えたみたいなことが書かれていたような気がする。

光秀に関する史料が少ないこともあり、これまで福井の人でも明智光秀について知っている人は少なかったと思うのだが、ここ数年急に行政(福井県)が中心となり明智光秀をPRするようになった(大河ドラマの誘致もその一環かも)。今日からは一乗谷朝倉氏遺跡資料館で明智光秀の特別展を公開するとのことで、久しぶりに思い出し朝倉氏遺跡資料館と明智神社に行ってきた。

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場所は福井市南部、東大味という集落にある。

実はまあまあ近所なのだが、特に行く用事もない場所なので初めて来た。

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山あいののどかな集落。

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最初の看板のところから200mほど歩いた場所に明智神社があった。

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「明智神社」という名前だが、正確に言うと、この場所が、戦国時代(朝倉家の家臣時代)に住んでいた居宅跡とのこと。

9190312.jimdofree.com

越前滞在時代の光秀の足跡については、朝倉氏遺跡資料館の特別展で詳しく(そこまで詳しくもなかったな)紹介されているので資料館に足を運ぶことをおすすめします。

光秀は、元々美濃国明智に生まれ、美濃の大名斉藤道三に仕えていたが、斉藤家のお家騒動(道三と息子の義龍との家督相続)に巻き込まれて、道三方についていた明智家が美濃を追われて越前に来たというのが通説のようである。但し、出典元とされている『明智軍記』という史料が、光秀死後100年後に書かれた書物とのことで、これまでは史料としての信憑性が疑われていたのだけれど、近年になって明智軍記で記されている内容を裏付ける史実が徐々に明らかになってきているようだ。

ちなみにこの祠は地元の人の手により明治時代に作られたもので、東大味の人からは「あけっつぁま」と呼ばれていたそうです。

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祠の中には写真のようなご本尊が祀られている。

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祠の反対側には光秀に関する資料が展示されている。

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中の様子はこんな感じ。美濃や近江坂本、丹波など光秀ゆかりの場所の写真なども掲げられていた。

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寄せ書きのノートもあった。

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本能寺の変前に光秀が残した言葉?「頼山陽」というのがよくわからん。

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なぜか鳥羽一郎のポスターまで。「光秀」を「おとこ」と詠ませるところが演歌だねー(笑)。歌も聴いたけど、カラオケで歌うのにはちょうどいいかも。

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なお石碑にもあるが、「細川ガラシャゆかりの里」とある。

諸説あるようだが、光秀が越前滞在時に細川ガラシャ(明智珠)が生まれたとのこと。個人的にはあまり詳しくないのだが、キリシタン?絶世の美女?悲劇のヒロイン?といったキーワードで語られることが多い。ご近所さん(?)なのによく知らないことをお詫びします(苦笑)。

余談だが、細川藤孝(忠興の父、ガラシャの義父)はかつて足利義昭が一乗谷に滞在した際に足利家に仕える身として随行しており、そこで明智光秀と出会って、その後光秀共々信長の家臣になった(ガラシャが細川家に嫁いだのはそういう背景がある)。

明智神社を後にして、次に、一乗谷に向かう途中、旧道(朝倉街道)に向かう。

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東大味から鹿俣に向かう峠道だが、ここも家からまあまあ近いけど久しぶりに通った。
現道の脇に、一部砂利道と石畳の旧道が残っている。

光秀が東大味から一乗谷に向かう際に通った道と思われる(馬に乗って向かったと思われる)。

次に向かったのは「御所」と「安養寺跡」。

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唐門(朝倉館)や復元町並の上流、城下町の東端にあったと思われる。

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この場所が、足利義昭が越前滞在時に居館としていた場所とのこと。
復元町並みや唐門付近には観光客がいたけど、ここは知られていないのか、全く人がいなかった。
ここ一乗谷で明智光秀が足利義昭と出会ったことが、その後の室町幕府再興(上洛)につながったということで、実は歴史上重要な場所だと思うのだが・・

もっとも、一乗谷では足利義昭の滞在は重要な位置づけとなっているが、以前ブログで紹介した鞆の浦では、10年以上滞在していたにもかかわらずあまり地元に取り上げられていなかったのが不思議でしょうがなかった。

歴史の教科書では、信長により義昭が京を追放されたことで室町幕府が滅んだように書かれているが、実際は、京を追われた後も征夷大将軍のままであり、毛利家の庇護のもと強い影響力を保持していた。また、本能寺の変の目的は、実は義昭の呼びかけに光秀が応じたのではないかとされている(これについては朝倉氏遺跡資料館の特別展でも紹介されている)。

来年の大河ドラマで、光秀の越前時代がどこまで描かれるかは興味深いところであるが、個人的には、一乗谷を舞台に義昭との関係についてドラマにしてほしいと思う。

 

※追記:10年前のブログにでも明智光秀について書いていました。